先月は色々と忙しく歌舞伎座に行けない月だったものの、偶然一日だけ空いた日に当日券で念願のコクーン歌舞伎を見に行ったら奇跡が待っていた。
気をコントロールする
昨日、オケが2つあったんですけども、夜枠のオケの練習後のシンポジウムで、気のコントロールが出来るという方に「気を乱す」というのをやってもらいました。
黒船室内管弦楽団 第8回定期演奏会
先日の黒船のアンケートをようやく読む。回収率高し、かつ絶賛ばかりで嬉しい限り。
クラシックの宿命か、高齢の方が多いが、あれくらいの年代の方は若い頃にクラシックをレコードで聞いて育った世代。だから、カラヤンだとかの巨匠、ベルリンフィルだとかの世界最高峰のオケが比較対象になる。それでも万雷の拍手を頂けるのは、ひとえに団員の皆さんの努力や気持ちの賜物。指揮者はこういう音楽をやろうと身体で表現して導く係であり、実際に音を出すのは奏者。指揮者というのは本当に不思議な立ち位置で、指揮者がどんな有名人でも、奏者が音を出さなければ音楽は成り立たない。だから本番は奏者の力あってのもの。
とはいえ、褒められればやはり嬉しいものだ。毎回アンケートに開演前の話、指揮のどちらにもお褒めの言葉が書いてあって、とても励みになる。
自分に依って生きる
以前、ある人から助言をもらい、それに沿った行動をしていた。その人のことを信頼していたのに加え、そうしなければダメだと強く言うからだ。しかし、ある人から、その行動によって迷惑だと言われた。いずれそういうこともありそうだと予感はしていたが。
誰かに言われたからやるというのは、自分のための行動ではない。誰かに言われたことを実行して損をするなんてバカバカしいにもほどがある。言った人は何の責任も取ってくれない。それを実行したのは自分の意思だ。だから結局自分が悪い。それなら自分がそれでいいと思ったことをやって損した方が、納得いくし気持ちがいい分、数百倍マシだろう。
あれから7年
去年は書いていなかったようです。なんでだろうと予定を見直してみますと、10日が飲み会、11日がオケの練習と、余裕が無かったようで、書かずじまいになったものと想像されます。でも10日に某歌手の受賞記念記事を書いていました。
名付けるという行為の重要性
名付けるという行為は人間にとって本当に大きな意味を持つのだなぁと思い知りました。
トイレ行きねぇ
以下の科白は飲み会などで2名以上が同時にトイレに行きたくなったがトイレは一つしかないという局面で、相手に順番を譲る時に使用するものです。
中腰になり、手のひらを上に向けて相手の方に差し出しながらこう言いましょう。
「行きねぇ行きねぇ、トイレ行きねぇ。あなたにゃあ一宿一飯の義理がございやす。あっしはここで漏らしやすから。行きねぇ行きねぇ、トイレ行きねぇ」
これを使えば、飲み会の場が一瞬にして清水次郎長子分、森の石松を彷彿とさせる名場面となるでしょう。
銭ゲバを自称する人
身の回りでリトゥイートとかしている人がいて、結構な共感を得ていたので気になりました。
そのまま貼り付けてもよいのですが(というか本来そうするべき)、そうするとご本人の気分を害したり面倒なことになったりすることが多いようなので、本文のみ拝借いたします。
エンケン(遠藤賢司)さん追悼ライヴ
今宵はエンケンこと遠藤賢司さんの追悼ライヴ、「生誕71年 エンケン祭り ~追悼・遠藤賢司~」を見に渋谷クラブクアトロへ。
17年9月のオケ公演のこと
”NJBP Live! #9″も無事乗り切りまして、色々と一段落したところで今頃昨年9月の”NJBP Concert #0″の録音を聞いているのですが、アンコールの「ファンタジーゾーン」が良すぎて涙が出てきます。
元曲と編曲と演奏、そして会場の空気が最高にマッチしているこれ以上ない幸福な瞬間。音楽に興味があるない、ゲームを知っている知っていない、全ての壁は無意味となり、その場にいる聞く人演る人全てが幸せに包まれる感じ。
自分が目指している活動の答えの一端がほんの僅かながら見えた気がした瞬間でした。あの指揮台に立つことが出来て本当に良かった。
自分の関わった過去の演奏を「良い」ということはあまりないんですけども、これはまたいつか絶対演奏したいし、必ずやるとお約束する1曲です。
更に言うと実は映像もあるんですが、こちらもようやく見ました(全部は見てない)。
正直オケ公演(に限らずですが)は開催に係るほぼ全ての面の対応と責任者であり、さらに指揮者、司会者でもあったため遮二無二駆け抜けた感があって、「どうにか終わった!」という気持ちが強くて実感が無かったのですが、映像を見て、本当にオケ公演まで辿り着いたんだと感慨に耽っている1月の深夜です。