エッセイ」カテゴリーアーカイブ

譲り合いの精神は大切ですが

 自転車走行禁止、降りて通行してくださいという狭いガード下がありまして、まぁ必ずしも皆が皆、自転車を降りるわけではないのですが、大抵は下記のケースで対処しているようです。

イ.そもそも自転車に乗らず押して歩く
ロ.人がいない時は自転車で通行する
ハ.前から人が来た時は自転車を止めてすれ違う
ニ.前方に人がいた時は降りて歩く

 至極当前の対応ですね。これで問題は起こり得ないはずですし、禁止と書いてあるからといって、絶対に乗ってはならないとは思いませんので、このあたりが妥協点だと私は思うわけです。ところがこのケースに当てはまらない通行者もいるのが現実です。

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人間は実際に体験しなければ想像できない生き物なのか

 先日の台風10号により、東北地方、北海道で大きな被害が出ております。場所によっては、東日本大震災以上の被害状況だそうです。

 それほどの被害が出ていながら、東日本大震災ではTwitter等であれだけ支援の機運が高まったのに対し、今回の台風では募金や支援が広く呼びかけられるでもなく、まるで何事も無かったかのように日常が過ぎていっているように見受けられます。

 何故か。恐らく体験していないから、実感が無いのではなかろうかと。あの台風は大したものではなかったと、無意識の部分でそう思っているからではないかと思われます。

 震災の時は、関東でも人生で感じたことのない、死に直結しかねないレヴェルの揺れを実際に感じ、交通機関は大混乱、帰宅ができないなど実害が出たため、その経験を元にして被害の大きかった地域のことを想像することができました。テレビでも、人の命が無くなる瞬間を生で報道していました。しかし、今回の台風は関東では夜の間に大した実害もなく通りすぎていったわけです。だから他人事としか思えない。自分には関係ない。あれしきの台風ごときで騒ぐな。そんな心理が多少なりともあるのではないでしょうか。

 震災の時もそうだったのですが、結局テレビからは実情は伝わってきません。テレビからは作られた世界だけが伝わってくる。見せたいと思ったものだけが切り取られて運ばれてくる。だから、残念ながらニュースを見ていたって分かりゃしません。

 私も今現地に友人がいるので被害の甚大さを想像できているのですが、そうでなければ何も感じなかったかもしれません。自らの想像力の欠如具合を嘆くばかりです。そんな自戒も込めつつ、本当に大変なことになっているのだということを、私の知り合いにだけでも知っていただければと筆を取った次第です。

 こういう時、音楽では何一つできないのが無力で腹立たしい限りです。

他人を音楽ではなく言葉で操ろうとする音楽家

 オケやらなんやらの本番直後に「あなたはとても努力してますね」とか適当に褒めて、他人からの支持を稼ごうとするのは簡単なんですよ。それは指揮者をやっていれば誰でも一度は駆られるであろう誘惑なんです。でもそれって違うなと常々思っています。逆に、プロ活動をしていてそれを言われたなら、アマチュア扱いされていると思った方がいいのではないでしょうか。

 私が望んでいるのは魂のぶつかりあいであって、音楽をやっている場で分かりあう。そういうことのつもりです。お互いに音楽をやっている瞬間に分かりあえれば言葉で伝える必要なんて何もない。そう思います。分かりあっていなかったり、心にも思っていないから、わざわざ終わった後にどうでもいい褒め言葉を繕って伝えなければならない。かなり低レヴェルではないかという気がします。そんなのは誰にでもできますし、同じ舞台に乗った人を無差別に褒めてれば、自分を好きになってくれる人がいるから楽でしょう。それで自分を支持してくれる人が増えるんだから、そりゃあ楽ですよね。それどころか、心にも無いことを言って自分を支持してくれる人を増やそうなんて意識が見えるのは最低なことのように思います。繰り返しますが、それは簡単です。でも僕はそれをやらない。というか、出来ない。そんなのは本当の人間関係ではないと思うし、心が拒否するから。

 もちろん、本当に心から良かったと思ったらすぐに伝えます。それは本心だから。そこで嘘はつきません。ですが、そういう言葉を簡単に発する人、かつ広く発信してくれるであろう人に対してそういうことを敢えて言って、自分の評価や美談にしようとする人は、ほぼ偽物だと考えています。音楽だけでは話にならないから、音楽ではなく、言葉のまやかしで生きている。

 そして、そういうトリックに気づかず、舞い上がってしまう人。その人の信者になってしまう人。残念ながらそういう人が世の中ほとんどだということも承知しています。そういう人を上手く焚きつければ、自分の立場も上がっていく。例え嘘でも人に好かれて、信者が出来て、それで活動の場が広がって、そうして成り立っていく。仕事になっていく。それが現代の正しいステップアップの仕方。他人の感情を食い物にして自分がのし上がっていく。まさにビジネスだと思います。でもそれは、不器用と言われても私には出来かねる。本音と本音でぶつかって、音楽の中で分かりあう。分かりあえなければそれまで。それ以外に求めている事はありません。

 褒められて舞い上がるなんて、新しいことが出来て褒められて喜ぶ子供と同じ。自分と向き合い、自分の納得のいく音楽が出来たか否か。満足のいく演奏ができたかどうか。それが全てで、そんなのは人に言われてどうこうではないはず。外からの評価は自分ではなく他人が決めること。ちょっといい言葉で褒められて舞い上がるなんて、音楽家が乗り越えるべきハードルの最も初期の段階ではないかと思ってなりません。

 褒められて嬉しいというのは否定しません。そりゃあ誰だって気分のいいものですから。でも、それを乗り越え、その先に進まなければ嘘でしょう。そこでどうのこうの言って舞い上がっている時点で、私とは歩む先、見ているところがまるで違うのだなと思ってやみません。

新たな刺激を

 何事も、上手くいっているときは、無意識にこれでいいのだという意識が働き、そこに安住しようとする。ここにいれば楽しい、安心だ、安全だ、このままでいい、このぬるま湯に浸かっていよう。その結果、進歩しよう、進化しようという気が知らず知らずのうちに薄れ、自分では気づいていなくても、新たな挑戦をしなくなる。

 常に進化を続けるためには、先に進まざるを得ない過酷な環境に身を置くしかないのだろう。過酷でなくとも、刺激は必要だ。追い込まれないと動かない、私のような怠惰な人間は特にそうだ。数年に一度、そういう刺激を受ける。これも巡り合わせか。だから常に安定しない。極端に言ってしまえば、安定は死だ。歩みを止めたら腐ってしまう。

 追い込まれなくとも常に新しいことが出来るのは天賦の才、つまり天才なのだろう。私は少なくとも天才ではない(誰もが分かっているとは思うが)。追い込まれて生み出す、ごく普通の人間なのである。いや、むしろだめな方向の人間だ。それでもなんとか色々やってるあたり、どうにかなるものだ。

近所のカレー屋の味が変わった理由と昨今のインドカレーを取り巻く環境について

 近所に年に5回くらい行く感じのインドカレー屋があるのですが、前回行った際に、明らかに味が変わっていて、今までは安いし近いからまぁいいかくらいの店だったのが、この味ならもっと通ってもいいなと思える味になっていました。

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ブラームス全交響曲連続演奏会を企画してみんとす

 こんにちは、市原指揮者です。たまには指揮者っぽいことを書かなければいけないなと思い立ったので書いてみたいと思います。というか、そんな理由じゃなくて単に思いついただけです。すみません。

 ふと、ブラームスの交響曲全曲演奏会って楽しそうだなと思ったのです。コバケンさんがベートーヴェンの交響曲全曲演奏会を毎年やってるわけですし、4曲ならまぁ出来る気がするぞと。よーし、パパ、さらに序曲もプラスして大学祝典序曲と悲劇的序曲もやっちゃうぞ。

タイトルは「ドキッ! ブラームスだらけの演奏会! ホロリもあるよ! ブラームスは凄い! ブラームス全交響曲連続演奏会」がよかろうと思います。「ドキッ!」から「あるよ!」までが、先につくタイプのサブタイトルです。

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