消極的選択により道筋を決めていくのは健全といえるのでしょうか

 人生というのは常に選択の連続なわけでありますが、消極的選択をしている局面が非常に多いのではないかなと、ふと思ったのです。

 例えば政治。

 選挙に行った事がある方なら思い当たる節がきっとあるのではないかと思うのですが、投票する候補を決めるのは、私はほとんどの場合が消去法です。この人がいいと思って投票した記憶はほとんどありません。

 この人はタレントだから、この党に入れるつもりはないから、この人は冷やかしだから、と消去法で決めていくと、大抵1~2名しか残らないのです。複数人残った場合に、ようやく政策やら主義主張を調べ、投票先を決めるという過程を経ています。選挙民としてはあまり頭のいいやり方ではないと思いますが、こういう方法で容易く絞れてしまう事も問題ではないかと思う次第です。まあ自分の選挙区に又吉イエスがいたら投票するかもしれませんけども。

 例えば携帯電話会社。

 私はauなのですが、選択肢がほぼドコモ、au、ソフトバンクの3社に絞られるわけであります。

 ドコモを一人勝ちさせるとロクな事がないから嫌だし、禿バンクは論外だし。という理由でauに落ち着いております。かといってauに満足しているかというと、別に不満らしい不満はないのですが、au最高! これからもずっとau! とも思わないわけです。もっといいキャリアがあればすぐ乗り換える事でしょう。実はiPhone3GSの頃に2年ほど禿フォンにしていたのですが、その頃iPhoneは禿独占だったので、という理由によります。キラーコンテンツの力は強いですね。

 そんな具合で、消極的理由により決定しているものが思った以上に多い気がしてきたのです。しかしながら、消極的理由により決断したものは、そのまま言い訳の材料にもなり得ます。自分が選んだ政治家がクソみたいな業績しか残さなかったとしても、他に選ぶ人がいなかったんだから仕方ないという言い訳と不満が噴出するばかりで、自分の決断の責任だと受け止められる人は多くないのではなかろうかと。しかし、それでは結局同じ事を繰り返すだけで、前進していかないのではないかと思うわけです。

 逆に、これが好きだから、これがいいから、と積極的な理由で決断できる物事や人に出会えば出会うほど、人生の彩りは鮮やかになっていくのではないかなと思うのですね。消去法で選んだ物事というのは、自分を騙し、そうだと信じ込ませているにすぎないわけで、そういう事を長く続けていれば次第に鬱々としてきて、負のオーラを溜め込んでいく結果になるのではないかと。携帯キャリア程度なら別にどうでもいいですけども、自らの人生に深く関わる事であればあるほど、です。

 消去法で選んだ、仕方がないからという消極的な結論ではなく、自分がこれだと思える事に対して邁進し、短い人生をまっとうしていきたい所存であります。自分を騙して生きていくのは御免被りたいですね。

 なお、文中にて、ついソフトバンクの事を禿禿と連呼してしまった事についてお詫び申し上げます。また、横浜フアンとして、ソフトバンク内川選手のご活躍をお祈りしてうわなにをするやめくぁwせdrftgyふじこlp;@:「」

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