考察が苦手

ゲームやアニメ、映画等に関する考察ってやつが苦手で。

答えが出ないことだからこそ、考察って意味があるんじゃないかなと思うわけです。多くの指揮者がああでもないこうでもないと頭を悩ませているのは、作曲者がとうの昔に鬼籍に入っていて、答えを知ることが出来ないからなわけで、今ベートーヴェンがご存命だったら、真っ先にベートーヴェンに質問しますもの。

だから、答えを知っている人がいる状態で、外野があれこれ考察して、そうだと思い込むという行為が苦手でして、我々はあくまで作品から受けた印象をそのまま受け止めればいいし、人それぞれでいいんじゃないかと。それぞれの妄想をお金を貰う仕事として公に発表して、「~じゃないか」「~かもしれない」と言うことに何か意味があるのか疑問なのです。いや、楽しいのは分かるんですけど、それを仕事としてしまうのは違うんじゃないでしょうかと。

そんなことを思ったのは、こんな記事を目にしたからなんですね。

ゲームの主人公は本当に「絶対的な正義」なのか? 「MOTHER2/3」のポーキーが問う”善悪の彼岸”
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1810/04/news013.html

筆者によると渾身のコラムらしいんですけど……普通にゲームやってたら分かることしか書いてなくない? と思って、これがすごい支持を受けるんだ……と不思議に思ったりしました。……と、こんなことを書くから無駄に敵を増やしてしまうんですけども。でも、誰も気づかなかったようなすごい考察はしてないよね? というのは本心でして、単なる趣味の文章の範疇を出ないと思いました。だから価値がないとは言っておりません。これを読んで「そうだったんだ! すごい!」と思う人がいてもおかしいとは思いません。

ただ、同人誌や一ファンのネットへの書き込みではなく、名前を出した仕事だとするなら、これは糸井さんに取材するのが筋ではないかと思うわけです。だって、答えを知ることが出来る環境が整っているのに、それをしないのは怠慢ではないでしょうか。今や飛ぶ鳥を落とす勢いのねとらぼって大手メディアとか色んなところに取材する力があるわけですよね。そのうえで取材を申し込んだけど断られた、想像にお任せしますと言われた、というようなことなら分かりますけども。想像を述べるのではなく、きちんと取材して後世に知識として残すことの方が重要ではないでしょうかと。

以前こんな記事を書きましたけども、

ファミコン版のドンキーコングで分からないこと
http://blog.185usk.com/2018/06/post-202542.html

例えばこれについて私が、「1面で画面の下から上にワープできるのはドンキーコングの心象世界の揺らぎを表現しているのではないだろうか。そうに違いない。私はそう思う。なんてすごいゲームなんだ。Oh, my gosh.」とか書いたら、支持されるどころか単なるキチガイなわけです。いや、それを言うのは自由なんですけども。でも、そんなものが仕事になるはずがない。それと何か違うのかなぁと。

これが個人のブログだったり、マザー大好きっ子掲示板! みたいなところへの投稿なら、そうかなるほどねと思えるんですが、影響力の強いメディアがしたり顔で載せるような記事ではないんじゃないかなと思いました。そもそもジブリの考察とかも苦手だし、エヴァンゲリオン関連の熱い考察も全然受け入れられませんでした。そもそも個人的な考察を遍く開示することは無粋ではないかなと思ってしまうのです。これは完全に個人的な性癖の問題なので、別に「皆さんそうですよね!?」なんて一切思っちゃおりません。自分のブログなので思ったことを書いているだけであります。批判するつもりもありませんので、ご注意をば。