昔の人ってよく憤死してるよね。特に三国志。
疑われて憤死。
責任を問われて憤死。
論戦に敗れて憤死。
嫌味を言われて憤死。
恥を感じて憤死。
罵詈雑言を浴びせられて憤死。
手紙を読んで憤死。
絵を見て憤死。
墓を見て憤死。
などなど、三国志における死因でも打率上位を争っております。首位打者争いであります。
そもそも「憤死」などという言葉には一切ご縁のない方もいらっしゃると思いますので、憤死とはなんぞやということでありますが、辞書には「激しい怒りのうちに死ぬこと」とあります。英語だと「die of indignation」となるそうです。へー、知らなかった。
さて、ここまで過去の偉人がばったばったと憤死している様子を見ておりますと、私としてもこの憤死という言葉の響きの持つ魔力に憧れ、叶うならば自らの死因を憤死にいたしたく、墓石には「**で憤死」と刻みたいと思ってやまないわけです。昨年の冬くらいから憤死待ったなしの出来事が次々に降り注いできておりましたが、未だ憤死せずに生きながらえておりますことから、憤死というのはそうそう簡単に出来るものではないのだなあと実感している次第であります。また、憤死もやむなしの状態を支えてくださった方々には多大な感謝を申し上げます。
では憤死を達成するにはどうしたらよいのだろうかと考えてみたところ、憤死にもいくつかの等級があるらしいことがわかりました。以下にご紹介いたします。
【難易度C】怒りを心に抱えたまま死去
これは比較的達成しやすいのではないでしょうか。老衰でもなんでも、死因はどうあれ怒ったまま死去すればよいわけです。しかしながら、果たしてこれを憤死に分類してよいのだろうかという一抹の疑問が頭をかすめることは否定できません。私としては、これは憤死としては除外。憤死界の恥さらしであり、レギュレーション違反であると定義したいと思います。
【難易度B】怒りのあまり体調を崩し憤死
上記と比べると俄然憤死らしくなってきます。怒りを原因に、緩やかに憤死に向かうパターンです。ただ、体調を崩したのは日頃の養生の問題ではないのですか、本当に怒りのあまり体調を崩したんですかね、八百長ではないだろうか、お前憤死言いたいだけだろ、など本当に憤死だったのかどうか疑われかねず、せっかく憤死しても後世に疑念を残してしまうという課題は残るものと思われます。本人の心とは関係なく、周りの受け取り方次第でどうとでもなる憤死と言えましょう。なるべくなら避けたい憤死であります。
【難易度A】怒りのあまり血管が切れるなどして憤死
このあたりにくると誰の目にも疑いようのない憤死であると言えそうです。事象と死因が直結しております。手紙を読んだり、口論に負けたりして、顔を真赤にしたと思ったらそのまま逝ってしまうわけです。ただ、目の前で憤死されますと、憤死させた側にもあまりよい思い出にはならないでしょうから、一度自宅に帰ってから沸々と怒りが沸いてきて憤死、などという方がよいのかもしれません。先んじて、あいつは憤死したと証言してくれるパートナーは必ず見つけておきたいですね。いざ憤死という時に備え、日頃から脂でギトギトな食べ物を積極的に摂取し、血管の脆弱性を事前に高めておくのも、憤死達成のためのプロセスとして取り入れる価値は十分にあるのではないかと思います。
【難易度S】怒りのあまり柱などに頭を打ちつけて憤死
出ました。憤死界のスーパースター。キング・オブ・フンシ。審議の余地なし。満場一致。やはり憤死はこうでなければ。言い換えてしまえば怒りのあまり自殺したと、そういうことですね。これはもう、物事が正常に判断できないほどの怒りであったということが容易に想像でき、何人たりとも憤死を疑うことができない、ああ本当に怒ったのだなあと誰しもが理解できる、強大な説得力を持つ憤死の中の憤死だと言えましょう。周りの驚きが目に浮かぶようです。してやったりですね。
以上、憤死の等級についてご紹介したわけでありますが、次にどのような理由で憤死を遂げるべきかを考えてみたいと思います。
・ オレオレ詐欺に遭って憤死
難しそうです。なぜなら自分がオレオレ詐欺にかかるなどとは微塵も考えていないから。しかし、だからこそ、万が一騙された時には自らへの怒りも含め、憤死する可能性が否定できない部分があります。ただ、憤死するくらいなら犯人を探し出してどうにかしたいところです。
・ 不況のあまり憤死
社会派憤死。世界の行く末を嘆き、怒るあまりに憤死するのですが、たかだか一市民が不況で憤死したところで、恐らく誰も気に留めてくれないと思います。
・ 猫アレルギーだと判明して憤死
猫が大好きなのに、あなたは猫アレルギーですと宣告され、憤死。猫アレルギーの疑いはあるものの、何ともない時と、くしゃみが出る時があり、未だ判然としません。アレルギー検査は受けた事がないので、憤死を決意したときに受けようと思います。
・ オケの本番で振り間違えて憤死
これで憤死するなら既に何度か憤死してます。申し訳ありません申し訳ありません申し訳ありません。
・ 横浜軍が讀賣軍に敗北して憤死
あるかないかで言えばあり得ます。小学生の頃、横浜スタジアムへ対讀賣戦を見に行き、華麗な逆転負けを喫した帰り道、あまりの悔しさに怒りが治まらず、市営地下鉄関内駅についたところで鼻血を出した実績があります。今にして思えば、あと一歩で憤死していた可能性があります。ただし、それから長い月日をかけ、すっかり訓練されてしまったため、今では負けてもそこまで怒りがこみ上げてこないのが悲しいところです。
・ 不味いカレーを食べて憤死
世界一カレーが好きな指揮者を自称している私ですが、生まれてこの方、不味いカレーというものを食べた事がありません。かの高名な天才外科医である間黒男氏も「ボンカレーはどう作ってもうまいのだ」と述べております。およそ不味いカレーなどこの世には存在せず、カレーは全て美味いものであるという前提に立った際、この憤死は発生し得ないということになりますが、それだけに、不味いカレーを食べたときに憤死する可能性は飛躍的に高いと言えるでしょう。
そんなわけで、どの難易度の憤死をキめ、どんな理由で憤死するのか事前に考えておくのも、人生において有用な時間なのではないですかねとご提案させていただく次第であります。
っていうか憤死とかどうでもいいし、私は憤死とかしたくないなと思った。