結局、大衆の支持を得るにはストーリーや背景が必要なのです。
言葉や文章にしたってそうでありまして、全く同じことを著名人が言った場合と、無名の一市民が言った場合、前者を読んで「なるほど」と思った人でも、後者を読んだら「つまらん」と思う可能性は往々にしてあるわけです。むしろ真逆のケースで、著名人が誤ったことを言い、無名の一市民が正しいことを言った場合に、前者が支持されるということも発生するものと思っています。しかし、それはある程度仕方がないことなのだとは思います。
私も日頃、出来る限り虚飾は排し、物事の本質を見て判断しなければと思ってはいますが、果たして本当にそれができているかは甚だ怪しいものです。そうならないために、マスメディアや著名人の言説はまず疑ってかかるくらいでなければ、簡単に扇動され、流され、利用されてしまうのではなかろうかと。かといって、何でもかんでも疑って頭のネジが外れた陰謀論者になってもいけないわけです。何事もバランスです、バランス。生きていく上で大切なのはバランス感覚だと思っています。どちらかにふれすぎれば道を踏み外して逸脱してしまいます。
しかしながら、現代において話題性を獲得するには、大衆に訴えかける分かりやすいストーリーを仕立てなければならない。そうしなければ耳目を集めるという第一段階ですらクリアできないのであります。これはもう、各自が判断していいものを探す時代ではなく、これがいいですよ、感動しますよと押し付けられたものを消費する時代になっているということで、否定できないのではなかろうかと。
それが時代であるならば、それは悪いことだと言うつもりはありませんが、そういった背景が大きな事件を生み出してしまうこともあるということは念頭に入れておくべきではないかと思うわけです。自分は無関係だと思っていても、知らず知らずのうちに片棒を担いでいる可能性もありえます。一人ひとりが自分の判断基準を持ち、考えながら生きていく。これ以外どうすることもできないのかなと。
誰が何と言おうと、いいものはいいと自信を持って判断できるくらいには考えて生きていきたいなと思った次第であります。
ちなみに誰が何と言おうとネタ外国人としてボウカーは使い続けるべきであったと主張いたします。