―コップンカー。
それを聞いたのは、先日タイ料理店で昼食をとった時の事だった。
バイキング形式でタイカレーやパッタイをたいらげた私は、ダイエット中なのに少し食べすぎたかなと反省をしつつ、カレーの写真をSNSにアップした。
お会計が済むと、タイ人と思われる女性の店員さんが笑顔で言ったのが、それだった。
「コップンカー」
なんだろう。どこかで聞いたことがある。どういう意味なんだろう。気になりつつも、調べるほどの事でもない些細な事だとすぐに忘れ、帰途についた。
家に着き、なんとなくテレビをつけた。ワイドショーでは連日同じ話題を繰り返している。なんでもお年寄りの失踪が増えているのだとか。高齢者の認知症が社会問題になって久しいが、私の親はまだそこまでの歳ではないし、他人事としか思えず適当に流して見ていると、またしてもあの単語が耳に入ってきた。
「買い換えるなら、コップンカー」
ああ、そうだ、思い出した。車のCMで使われているのだった。
私は車に乗らないからすっかり忘れていたのだが、ガソリン車の全面撤廃が国会で決議され、5年で完全に切り替えるという法律が制定された。
本当は色々な裏事情があるのだろうけども、ガソリン価格の高騰と資源の枯渇、そして地球環境への配慮などが大義名分だったと思う。そして、いよいよその5年目が来年なのだ。
詳しい事は分からないが、それからの自動車業界は大変だったと、自動車産業の現場で働いている友人から聞いた事がある。
代替となるエネルギーは色々あった。水素、電気、ガスといった順当なものから、海洋深層水で走るなんていう詐欺をはたらく企業が生まれたりして事件になっていた。
そんな中で選択肢の一つとして出てきたのがコップンカーだった。車名はコップンカーだが、漢字で書くなら骨粉カー。要するに骨粉を燃料として走る車なのだそうだ。そんなバカなと思ったが、走っているのだから仕方がない。
その昔、大問題になった、狂牛病のあおりで大量に廃棄され続けてきた牛骨粉を、資源として再利用するという画期的な車は、政府認定車になり、購入の際に国が半額補助するという事もあって人気を集めているらしい。友人も新車で買い換えたと言っていたっけ。
その車のCMで使われているコピーが「コップンカー」だったのだ。今更ながら、どういう意味なのだろうと調べてみた。タイ語で「ありがとう」という意味だそうだ。なるほど、CMでは柔和そうなタイ人女性がカメラに向かって笑顔で「コップンカー、コップンカー」と言っている。そういう意味だったのかと一人合点し、ニヤリとした。
次の日、午前8時を回った頃にインターホンの音で目が覚めた。来客や宅配便の予定はないのに、こんな朝早くに一体何事かと、睡眠を妨害された事に半ば憤慨しながら受話器を上げた。
「コップンカー」
第一声がそれだった。一瞬面喰ってしまったが、どうやら車の販促らしい。つまり営業だ。といっても、車を売りつけようというのではなく、工場見学に来ませんかというものだった。実物を見て試乗してもらい、良さを実感してもらいたいと、嫌味なく力説していた。
普段、出不精で面倒くさがりな私だが、車を買う必要は無いし、行くだけで粗品がもらえるというので、昨日からコップンカーという言葉に何やら運命的なものを感じていた事も相まって見学を申し込むことにした。
工場は東京湾に面した横浜の外れにあった。送迎バスが自宅まで来て、さながら旅行の団体ツアーのようだった。添乗員に聞いたところ、1グループ80名程度でまとまって見学を行い、それを1日に8回ほど行っているのだそうだ。私以外に若い参加者は少なく、半分以上、いや恐らく7~8割を高齢者が占めていた。平日だし、時間も時間だ。それに高齢化社会なのでこんなものなのだろう。私が使っている市営地下鉄も、いつも乗客の8割くらいが高齢者のような気がする。総理大臣が、高齢化にはこの道しかないと叫んでいるが、今のところ庶民にはまるで実感が無い。この国の未来はどうなるのだろうと思った。
ツアーは工場長の挨拶から始まり、車の組み立ての工程を順に見ていくものだった。オートメーション化されている部分と、人力の工程とがあり、1台作るのも大変なのだなとすっかり感心してしまった。
工場長の挨拶で、危険な作業場がたくさんあるため、列からはぐれたり立ち入り禁止区域には入らないように言われていたが、確かにあんな恐ろしげな機械に手でも挟まれたらたまらない。
ツアーの中盤くらいで「コップン」と書かれた札のついている部屋を見つけた。ここだけ扉が錆付いており、一種異様な雰囲気を発していた。「入室前上長確認必須」とも書いてあった。観音開きの鉄の扉は、少しだけ空いていた。好奇心の塊である私は列から離れ、吸い寄せられるようにその扉に向かっていった。扉は重かった。が、開けられないわけではなかった。
私の身長の倍はあろうかという扉の左側を押し開け部屋に入ると、そこは錆と油の汚れで赤黒い世界だった。唸りをあげて振動を続ける機械が部屋の向かって左奥に設置されていた。何かを砕くような轟音が断続的に響いており、とても不快だった。初めにその巨大な機械に目を奪われ気づけなかったのだが、部屋の全体に目をやると異様な光景が広がっていた。
その部屋では、たくさんの老人が列を成していたのだった。そして列の先には機械があった。
なんだこれは。どういうことなのだ。なぜならんでいるのだ。なんのために。
状況を理解しようと努力したが、本能が理解してはいけないと告げた。叫び声をあげそうになったが、本能が叫んではいけないと告げた。
必死で声を押し殺し、踵を返して一目散に部屋から出て扉を閉めた。一瞬の出来事にも関わらず、体中が汗でびっしょりになっていた。
膝に手を付き、息を整えようとした。ふと顔を上げると、ツアーの最後尾を務めていた従業員が笑顔で私の前に立っていた。どうされましたか、列から遅れていますよ。にこにこしているが、目は笑っていなかった。恐怖のあまり声が出ない。やっとの事で、掠れた声ですみませんとだけ絞り出し、列を追った。ここから先、ツアーが終わるまでの事はよく覚えていない。
帰りのバスに乗ると、心なしか行きよりもバスの車内が広いように感じた。バスが見えなくなるまで工場長が笑顔で手を振って見送りをしていたが、最後まで私の事を見ていたような気がした。
それにしても、あの部屋はなんだったのだろう。恐ろしい想像が次々と浮かんでは消えていく。なんだったとしても私には関係ない。もう寝て忘れよう。寝れば大抵の事は忘れられるのだ。そう思って布団に入った。
眠れない。あの光景が瞼の裏に浮かんできた。まんじりともせず布団の中で2時間ほど経っただろうか。
「……ップンカー」
何か聞こえた気がする。テレビを消し忘れたのかと思ったが、テレビは消えていた。
「……ップンカー」
また聞こえた。疲れているのだ。早く寝なければ。
「……コップンカー」
間違いなく聞こえる。外で誰かが言っているのだ。ガシャンとガラスが割れた音がした。
「コップンカー」
部屋と外とが直接繋がり、今度ははっきりと聞こえた。叫ぶでもなく囁くでもなく、無感情に淡々と発している。窓が割れ、部屋にはボルトが落ちていた。昼に見た車の部品だ。
「コップンカー」
「コップンカー」
「コップンカー」
少なくとも10人はいる。声の距離からどんどん部屋に近づいてきているのが分かる。なんなのだ。なにをしにきた。私がなにをした。帰ってくれ。悪夢なら覚めてくれ。
コップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカーコップンカー――
悪夢は終わりそうになかった。