「死」というものについてはよく考えるんですけどね

 アメリカの若者が尊厳死を選んだという事で話題になっているわけですが、親戚の葬儀に参列したり、私の高校時代の同級生が数か月前に癌で亡くなっていたという事を最近知った事も相まって、色々と考えるところがあるわけです。

 死という概念や、話をする事に嫌悪感を覚える方は読まずに引き返した方がいいかもしれません。

尊厳死宣言、薬飲み実行…脳腫瘍の29歳米女性
http://www.yomiuri.co.jp/world/20141103-OYT1T50112.html

 考えるところがあると言っても、改めて認識したという感じで、考え自体は変わっていないのですけどね。

 私は、自殺は何があっても決して認めない立場をとっているのですが、上記のような尊厳死、「安らかに死ねる権利」については認めてよいのではないかと思っているのですね。

 そうなると、自殺と尊厳死をどこで線引きするかという事になろうかと思うのですが、病気や疾患のため近い将来に死ぬことが明白に決定づけられており、この先は、生きていても肉体的、精神的に苦痛が加速して一方である事が分かりきっている場合に、本人の意思を尊重しない理由がないように思います。

 数ヶ月後に死ぬか今死ぬかという違いであって、訪れる結果には変わりはないわけで、苦しみ尽くして自我が保てない状態になるまで延命するのか、心身ともに正常を保てているうちに安らかな死を選ぶのかと考えると、無理やりな延命にどれだけの意味があるのだろうかと感じます。

 とにかく限界まで生かそうという現在の医療方針自体、本当に正しいのだろうかという疑念も常に持ってはいます。ですが、これは本当にケースバイケースであり、一般論に出来るような答えがまるで見つからないので、間違っているという結論を導くこともできないでいたりします。

 幸いな事にと言うと語弊があるかもしれませんが、これまでの人生において直近でも10年ほど前と、葬儀をほんの数回しか経験していなかったのですが、最近親戚の葬儀に参列しまして、ああそうだったと思いだした事がありました。

 人は、例え亡くなっても、肉体がそこにあると、まだ一緒にいるような気になるのですよね。どう見ても寝ているだけですから。明日の朝になれば起きてきても不思議ではない。綺麗にしてくださって葬儀屋さんありがとうという話です。

 ですから一番辛いのは、お棺を火葬場に入れる時なのですね。荼毘に付す事で肉体も失われ、本当に二度と会えなくなってしまう。その人に会えるのは想い出の中と、写真などの刹那を映したコピーだけになります。今後声を聞くことも触れることも見る事も永久に叶わない。それを厳然と突き付けられる瞬間が一番辛いなと。

 逆に言えば、荼毘に付すのは踏ん切りをつけるためなのかもしれないと思ったりもします。この人はもうこの世にはいないのだと。もちろん、火葬がそのような発想から始まったわけではないのでしょうけども。

 そもそも、世間では死をタブー視しすぎではなかろうかと思う事が多くあるのですね。どれだけ偉くなろうとも、何かの世界一になろうとも、どれだけお金を稼ごうとも、死は万人に平等に訪れるものであって、生物が行きつく究極の結末なのですから、100%例外なく全ての人間に関係があるわけです。世の中に「絶対」など無いと言いますが、死は現時点の人類に対しては絶対です。親しい人がいなくなるのは嫌ですけども、こればっかりは仕方がない。

 人生において「仕方がない」という言葉は大嫌いで、使わないようにしているのですが、これだけは本当に仕方がない。そう考える以外受け止めようがないものと思います。老いも若きも人が死ぬのは仕方がないと。仕方がないと思わなければ受け入れられない。

 でまぁ、それがいつどこで訪れるか誰にも予測は出来ないわけで、明日、いや今日この直後に自分の身に訪れるかもしれない。その可能性は何人たりとも否定できないのであって、考えているほど極限まで低い可能性という話ではないはずです。

 実際、私の知り合いに、バス停に並んでいたら大型トラックが突っ込んできて、一緒に並んでいた自分以外の複数名が亡くなるという大事故に巻き込まれた人がいます。こんな事をいったい誰が予測できるでしょうか。

 かくいう私も、ちょうど物心つく前後の事なのでほとんど記憶が無いのですが、生死の境を彷徨い、両親が医者から覚悟してくれと言われた事があったそうで、今生きているのも単に運が良かったからにすぎないんですね。今日生きているのは運が良かっただけで、自分の功績でもなんでもないわけです。

 その時に運悪く死んでいたら、今こうしてこのようなクソブログを開設してゴミのような駄文を生産している事もなく、日本BGMフィルが誕生する事もなく、JAGMOという団体も存在しなかったと考えると、全ての物には因果があるのだと思わずにはいられません。ご先祖様には感謝しろ的な話になってきますね。

 冒頭で触れました私の同級生も、まさか自分が死ぬとは微塵も思っていなかったのではないかと思います。私は見ていないのですが、壮絶な闘病を記したブログがあるそうで、死という現実を目の前に突き付けられ、人生の意味、自分の存在の意味、何故生きるのか等、色々と考える事があったのだと思います。多くの人に、人生とは、生きる意味とは、メッセージを伝えたかったのでしょう。

 できれば私はそれを常に意識したいと。もし自分が治療が出来ない末期癌だと突然伝えられたらどうするのか。その後をどう生きるべきなのか。明日トラックに撥ねられて死んだとして、無念のあまり地縛霊にならないで済むのか。答えを出すのは容易ではありませんし、机上の空論と実際にそうなった時ではまるで違うでしょうけども、考える事は出来ます。

 とまぁ、死はこれほど自分に密接に関わっている人生のイベントでありながら、多くの人が普段考えないようにしているのはどうも違和感があるというか、無意識に死という現実から逃げようとしているのではないかと。

 私は割と、死に関する事をブラックジョークで言ったりするのですが、不謹慎だとかなんとか言われることがなきにしもあらずで、まぁ不快に思われる方はいるのだろうなとは思いますが、死が不謹慎で口にしてはいけないという概念自体を見つめなおす事も必要ではなかろうかと思ったりもします。我々は死を遠ざけようとするよりは、同居すべきなのではないかと。いつも隣にいるのですからね。

 死んだ時の事なんて考えても仕方がないというのは確かにまぁそうなんですが、それは自分の場合であって、自分が死んだら投げっぱなしジャーマン並に無責任でいいと思いますよ。だって仕方ないですし、死んだらもう何も出来ないんですから。死にっぱなしジャーマンですよ(こういう事を言うから怒られるんですね)。ですが、身の回りの人たちがそのような状況に見舞われた時、自分はどうするのか、何が出来るのか、考えておく事が無駄だとは思いません。

 話を戻しますと、尊厳死については万人が関係する話だと思いますので、一般人から有識者まで、様々な考えや立場の方によって議論を尽くすべきであろうと思う次第でして、そんな事は知らない、自分には関係ないなどと考える事を放棄する事が最もよろしくないと思うのですね。

 繰り返しになりますが、もし自分の身近な人が死が避けられない状況になったら、尊厳死を望んだら、どう受け止め、どのように思考の道筋を立て、反対するのか賛成するのか、見て見ぬふりをするのか傍観するのか、急に決断できるでしょうか。死は考える時間を待ってくれないわけで、我々には無関係は話などとは思えません。

 世界の人々が考えるきっかけになるだけでも、この方の発したメッセージには大きな意義があり、報道機関がニュースにした事で一石を投じたものと思います。

 あれ、オチがない。