音楽の歴史を学ぶ際に、とりわけクラシックの時代では、例えばモーツァルトやベートーヴェンといった後世に名を遺す偉大な作曲家は当然重要な位置を占める存在でして、数百年の月日を経て現在に至るまでその名を轟かせているわけですから、文化として紹介されるのは自然な事だと思うのですが、果たしてそれで本当に当時の音楽文化を正確に伝えた事になるのかというと、違うのではないかという事がふと頭をよぎったのです。
歴史に名が残っているような有名音楽家の生涯を紐解いて、当時のミュージシャンはこんな生活をしていましたなどと言われても、まったく説得力がないと言いますか、特にモーツァルトもベートーヴェンもまごう事なく変人だったわけですから、少なからず一般的な市民の生活規範からは外れていたと予想する方がよさそうであります。
もちろん、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンといった、後に神格化される人物以外にも名前が残っている音楽家はおりますが、それでも決して多いわけではなく、では当時はそれだけしか音楽家がいなかったのかと言われると、そんなはずはないわけですね。
ですから、上記のような人物のみを例に挙げ、当時の音楽文化としてしまうような事があるとすると、それは本当に正しいのだろうかと。
現代において音楽に携わっている方は数えきれないほどおりますが、それに対して、後世に名を残すほどの名声を得ている人物の割合というのは、恐らく1%どころか、小数点何桁というレベルの本当に限られた一握りのみであるわけです。
ですから、2世紀後の2200年代になって「21世紀の音楽家の生活」などと銘打って、AKBやら三木道山大先生やらを例に挙げて音楽の講義をされても、それは全く実態に即していないわけですね。当時の作詞家はこうだったと秋元康の話を展開されても困るわけです。
そんな事を考えていたら、きっと当時も、売れなくても、歴史に名が残らなくても、素晴らしい音楽活動をしていた人はいたのではないかなと想像するに至り、圧倒的多数であろう、歴史に残っていない音楽家はいったいどんな事をしていたのだろうと気になった次第です。
極論すれば、過去はもう終わった事であり、それが分かったから今の何かが劇的に変わるわけではないですし、未来の講義でAKBが紹介されていようがなんだろうが、私はその頃もうこの世におらず関係ありませんのでどうでもよいのです。ですが、それらの考えを基に現在に目を向けてみますと、話を音楽だけに限定しても、この世には自分の知らない事がどれだけある事だろうか、そして生きているうちに出会える音楽のいかに少ない事かと一人の人間という存在の小ささを思わずにはいられません。
全く有名ではなくても、全力で魂をぶつけるライブをするミュージシャンがいますし、とんでもないステージを見せるバンドが存在します。有名になろうとしたり、評価されようとする、ブランディングとは縁のない世界で心から音楽を楽しみ、それを他人に伝えようとしている人たちが本当にたくさんいるのです。
そのように、歴史には残らない数多の優れた音楽家が同時代に存在しているわけですから、そこは常に頭の片隅に留めておく必要があるのだろうなと思うと同時に、マーケティングによって与えられるものを享受するのみではなく、権威や名声などに捉われる事なく、能動的に良いもの、自分の好きなものを探すという行為は尊いものであろうと思った次第です。とはいえ、それは簡単な事ではないのですが。
逆に、音楽をやっている自分といたしましては、なぜ音楽をやっているのかという原点については、決して忘れてはいけないものであろうと、勝って兜の尾を締める思いであります。
最後のは誤用です。