あの日から、3年の月日が流れました。早いものです。
2011年の夏、旅行に行く予定になっておりました。しかし3月に震災が発生。中止にすべきか迷ったのですが、観光目的でも現地でお金を使う事に意味はあるはずなので、むしろ行くべきだという結論に至り、岩手を訪れる事にしたのです。
岩手まで電車で行き、花巻に宿を取って拠点として、レンタカーで平泉や猊鼻渓、龍泉洞といった名所を回っていったのですが、どこもかしこも震災の爪痕が生々しく残っており、被害の大きさを目の当たりにしました。
花巻のホテルにはボランティアの為の部屋が確保されており、人がひっきりなしに出入りしていました。道路には復興支援の車やトラックが列を成し、被害の大きい地域へと、人を輸送していました。
二日目に平泉へ行った際、ふと、レンタカーなのだし、このまま陸前高田まで足を伸ばして現地の様子を見てみようと思いついたのですが、この事が、私の震災に対する考え方を決定的に変える出来事となりました。
正直な話、その時点では、陸前高田が甚大な被害を受けたとはいえ、何かしらの建物があったり、ご飯を食べるところがあるのだろうなどと思っていたのです。
ところが、私が目にしたのは、今でも忘れられない、想像を絶する光景でした。
平泉から太平洋沿いにある陸前高田に行くには山を越えなければならず、信号の無い細い一本道をずっと運転していくのですが、山を越えて陸前高田に近づくにつれ、だんだんと様子がおかしくなっていくのです。
まず、通行している車が自衛隊のものになっていきます。現地近くではほぼ自衛隊の車以外通行していませんでした。その光景は異様で、これは尋常な事ではないと徐々に緊迫した雰囲気になっていきます。
山を下り、海抜が低くなるにつれ、壊れた車が路肩に多く放置されている光景が目に入ってきます。これは津波にさらわれたものなのか。いやそんなまさか。その時点ではまだ確信が持てません。
そのうち、明らかに地形がおかしくなってきます。ある一定の高さ以下が更地なのです。こんなところまで津波が? それでもまだ、この辺りは元々更地だったのかもしれないと、半信半疑で運転を続けていました。
全てが確信に変わったのは、木に囲まれた細い道を抜け、高い位置から海沿いの平野が一望できる場所に出た時です。
かつて陸前高田市があったとされるその場所には、何もありませんでした。
海から続く、ただただ広い荒野。人間の介在しない土地というのは、こんなにも平らで何もないのだ。ここに数ヶ月前まで家があって、ビルがあって、数万人が暮らしていたなど、誰が信じられるのか。絶句する以外ありませんでした。
信号は動いていません。道路はどうにか分かります。ガレキがところどころ積み上げられて山になっています。倒壊せずに残っていたマンションらしき建物は、3階まで壁がなく、ただの骨組みになっています。それなのに、4階より上は何事もなかったかのように、在りし日の姿を保っているのです。道路以外の地面には水が溜まり、ところどころ池のようになっています。市役所と書かれた案内板が指す方向はただの平地です。ここが市の中心地で、人々の往来があったなど想像もできません。
報道を見ているだけでは決して理解できない状況で、今ここに来た人間として、目に、心に、焼き付けておかなければと強く思ったのです。テレビでは「被災地では復興が始まり」という言葉が使われだしていた頃だったので、陸前高田についたら休憩でもなどと甘く見ていた事が申し訳ない気持ちになりました。復興なんて何も始まっていない。一体これのどこが復興なんだ。テレビでは真実は分からない。この状態から復興まで果たして何年必要なのだ。
陸前高田を去り、別の山道を通るルートで花巻まで帰る途中、土産物屋らしき建物があったので立ち寄りました。現地の方が切り盛りしていたのですが、明るく元気に接客をしておられました。それを見て、人間は強いし、時間はかかってもきっと復興できるに違いないと救われた思いがしました。大した被害を受けていない私が現地の方に救われてしまったのです。
土産物として、倒れてしまった高田松原の松で作ったというキーホルダーが売っていました。代金の一部が復興支援に使われるという事で購入し、その日から今日に至るまで、ずっと鞄に付け続けています。
何かの縁なのか、それから2年後の2013年、「陸前高田にオーケストラを」で再び陸前高田を訪れる事になりました。あの時と比較すると道路や土地はだいぶ整理され、電線が張り巡らされ、復興に向けて確かに進んでいるのだと感じました。ただ、それと同時に、この状況で復興という言葉を使ってよいのだろうかとも思ったのです。
本当の意味での復興は、被災者、支援者という枠組みが無くなり、皆が対等の立場に戻れた時なのではないかと、そう考えるようになりました。
それがいつになるのかは誰にも分かりませんし、想像を超えた途方もない時間が必要かもしれません。ですが、それに向かっていこうという意思は常に持ち続けなければならないのではないかと。たかだか一人の人間に出来る事は多くないですし、そう大した事は出来ないと思っています。私に出来るのは、忘れない、風化させない、そして、出来る事があるならばやる。これくらいでしかないと思っています。
私などが言える言葉ではないのは承知ですが、いつの日か、全ての人の心に平穏が訪れる事を願っております。