今から記すのは、ベートーヴェンの交響曲第10番を巡る物語である。
■ 若きクラシック研究家がいた
クラシック史の研究に従事している若者がいた。無論、クラシック研究の世界では無名である。そんな若者がクラシックの歴史を揺るがす大発見をする。ベートーヴェンの交響曲第10番の楽譜を発見したというのだ。これは大変な発見だと、先輩研究者らが助力を申し出、共に研究を進めていった。
その若者からの報告や、送られてくる楽譜の画像は熟練研究者を興奮させた。これは人類の歴史に残る発見だ。まだ不明瞭な部分が多いが、なんとしても世間に公表できる段階まで持っていかねばならない。
提出される楽譜の分かりづらい点、不明瞭な点の修復と修正を続ける研究者たち。苦心しながらも、いよいよ交響曲第10番として発表できる状態にまで体裁を整えたのである。
研究者はクラシックの権威誌に研究の成果を報告する。研究報告は公正な方法で得られたものであるという性善説によって掲載をしている権威誌は、その研究結果を掲載する。権威誌が認めた世紀の大発見という事でメディアから問い合わせが殺到し、会見を開く事となった。そして、この発見はクラシック界のみならず、一般社会も大いに騒がせる事となる。
■ そこに現れたのは意外な人物だった
マスコミ向けの会見に現れたのは、ヴァイオリンを持ち、美しいドレスを身に纏った容姿端麗なうら若き女性であった。彼女は音楽大学を卒業しており、ヴァイオリンの腕前もプロ級だという。
マスコミの要請に従い、ヴァイオリンの腕前を披露する彼女。そしてそのドレスは音楽家であったという祖母から譲り受けたものらしい。音楽大学を出ながらも、研究家の道を歩む決意をした苦労を熱く語る彼女。
これだけの話題を提供され、報じない方がどうかしている。その日のニュースでは、ヴァイオリンを演奏する彼女の様子が何度も流れた。会見で来ていたドレスの逸話が熱心に報道された。一見すると男の世界という印象を持たれがちなクラシック研究という道に、一輪の華が咲いたように思われた。
一方、第10番の発見とヴァイオリンの腕前は無関係ではないかという見方も存在した。そのようなパフォーマンスをする必要があるのか、と。
■ 報告内容に暗雲立ち込める
世界に誇るべき大発見としてベト10フィーバーに湧く世間であったが、一転暗雲が立ち込めてくる。権威誌に発表された楽譜は、過去の無名な作曲家の作品の切り貼りではないかという疑いが出てきたのである。
彼女が報告した楽譜のフレーズは、自分が作った楽曲に酷似している。コピー以外でこれだけ酷似する事などありえない。そうした告発もあった。また、彼女が音大在籍時に課題として作った楽曲がそのまま転用されている部分があるという。
これにより、研究報告は捏造であり、第10番など存在しないのではないかという疑惑が巻き起こった。
■ 割れる世論
彼女は反論した。曰く、下書きの段階で、代わりに差し込んでいた楽譜をそのまま使ってしまった。曰く、この方が出来がよいと思い、別の曲のメロディを挿入してしまった。曰く、やってはいけないとだとは知らなかった。曰く、実際に第10番の楽譜は存在する以上、単純なミスをしてしまっただけであり、悪意があったわけではなく、修正をすればよい。
世論は割れた。
肯定派はこう言った。
彼女が第10番はあると自信を持って言っている以上、それを信じたい。出る杭を叩いているだけだ。女性の社会進出を阻む勢力がある。日本人が発見したとなると都合が悪い機関や国による妨害工作だ。利権が絡んでいるに違いないので、圧力に屈してはならない。頑張ってほしい。
否定派はこう言った。
悪意があるないではなく、そもそもそのような事をする必要はないはずだ。ベートーヴェンの楽譜に他の曲を勝手に混入させて良いわけがない。切り貼りを行った時点で第10番の存在は限りなく疑わしいと言わざるを得ない。例えあったとしても、彼女の行為は研究者としては失格である。
ベートーヴェンの交響曲第10番をなんとしても聞きたいという人はこう言った。
彼女が良いか悪いかは別問題だ。第10番が本当にあるのかどうかをはっきりさせろ。
楽譜の原本を公開すれば全てが証明されるのだが、待てどくらせど決定的な証拠は出てこなかった。
■ そして会見へ
彼女はマスコミを集め、会見を開いた。自分の未熟さを悔い、自らの行為が招いてしまった結果を謝罪した。そして、自分が行った事は決して捏造や不正ではない事を熱く語ったが、会見でも楽譜の原本が示される事はなかった。
痺れを切らしたメディアが質問した。
「それで、ベートーヴェンの交響曲第10番はあるんですか?」
彼女は目を輝かせ、明確に、はっきりと、自信を持って答えた。
「交響曲第10番はありまぁす!」
この様子を見て、彼女があるというならあるのだと感じた人がいても不思議ではないと思わせるだけの何かがあった。だが、彼女は肝心の楽譜は提出しない。ベートーヴェンの交響曲第10番は存在しないという事がクラシック界では誰もが知る常識であり、あると証明するには、実際に楽譜を見せるしかないのにも関わらず。
彼女の発表を受け、世界中の研究者が莫大な費用をかけ、第10番の存在の裏付けをとる調査を始めている。だが今のところ、誰一人として楽譜の存在について有力な情報に辿り着いたものはいない。
―了
■ ベートーヴェンの交響曲第10番
上の話は無論フィクションでありますが、大前提として以下の事実を挙げておきます。
・ ベートーヴェンは生涯で交響曲を9曲しか遺しておらず、10曲目を作らないまま他界した
・ 第10番と思われるスケッチ(下書き未満の草稿)のみ発見されている
・ スケッチも数小節ほどの断片的なものばかりであり、決定的なものは存在しない
■ あると言ったからあるでは困る
あると言ったからある、では話にならんと思います。あると証明されるには、その正しさを担保してくれるだけの信用、信頼、そして第三者による正確性の確認が必要です。悪意のあるなしに関わらず、事実でない事を報告するのは、その信頼を地に失墜させる行為であるため、非常にマズいと。あると思っている人は、何を根拠にあると信じているのかが気になるところです。
今現在、あると思うための根拠は以下の事項くらいでしょうか。
・ 権威誌に掲載された
・ 発表者が存在すると言っている
これ以外にない気がするのですが。これだけで信じてしまうのは、まったく論理的ではないと思います。
逆に、無いと思うための根拠は以下でしょうか。
・ 本人以外誰も裏付けが取れていない
・ あるならば行う必要のない捏造を行った
・ 決定的な証拠を提出しない
こちらの方が信ずるに値する根拠としては明らかに強いと私は感じます。
というのが私が現在行きついている事なのですが、見方は千差万別ですからね。最終的にどうなるんでしょうか。いずれにせよ、その業界や世間に事実を発表する段階で、事実と異なる切り貼りなどを平気でしてしまう人は、その道で信用を失っても仕方がないのではないかと思うところです。一つ捏造があれば、他にもあるのではと報告全体の信頼性に影響を及ぼすであろう事は想像に難くありません。
あと、弁護士を雇って捏造か否かを争点としているのも「???」です。世間に対してではなく、識者に向けてきちんとした説明と釈明をすることがまず何より必要なのではないのですかね。
他に思うのは、上記のベートーヴェンの話であれば、過去の事であるため真贋の確定が比較的簡単であると思われるのに対して、例のアレはまだ見ぬ未来の事だという事です。「かもしれない」と言えば何でも可能性は発生してしまうわけで、実在しない可能性が限りなく高いもののために、多くの研究者が多大な労力と時間、費用を割くのは不毛以外の何物ではないと思うのですよね。「かもしれない」を信頼して、裏付けをとってもらうための論文であり、その論文の信頼性が損なわれたなら前提が崩れるわけで、終わりですよね、というのが文系バカの私なりの結論ですが、どうなんでしょうか。
Sゴーチさんは「嘘だとしても曲に感動した人がいるからいいんだ」とはならず、批判、嘲笑の的となり、Oさんは「捏造があったとしても存在するならいいんだ」と擁護、応援の対象となるのも、見た目が逆だったらどうなってたんでしょうねとか色々と思うところがあるのですが、暇があったらいずれ。