十二月大歌舞伎「壇浦兜軍記 阿古屋」

 トゥイッターで触れたのですが、歌舞伎座に「阿古屋」を見に行きました。

 と書いたのですが、どうしても玉三郎さん以外の阿古屋と、玉三郎さんの岩永が見たくて、ちょっと無理をして二度目の阿古屋に行ってきました。

 今月は玉三郎さん、梅枝さんと児太郎さんという三人で演じ分けておりまして、玉三郎さんが13回、梅枝さんが6回、児太郎さんが5回の計24回が上演されました。

 今日は梅枝さんの楽日で、前回の玉三郎さんの日と全く同じ時間に並び始めたのですが、5~6人くらいの差でしかありませんでした。もう少し空いているのかなぁと思ったりしてたんですけどね。さすが阿古屋です。玉三郎さんの日は着いた時点で立見と言われ、立見上等と並んでいたのですが、自分だけ列の最後尾みたいになっていたので、「???」と思っていたら90番。なんと座って見られる最後の番号に滑り込みセーフという幸運に恵まれました(なんで立見って言われたんだろう)が、今日は84番でした。

 さてさて、阿古屋自体は、自分が音楽をやっているという理由もあるのだと思いますが、最初から最後まで見ているこちらが緊張して固まってしまうような演目です。とにかく一観客として見ることが難しく、何か重ねてしまうというか、応援してしまうというか、祈ってしまうというか……。

 玉三郎さんの何が凄いって、実際には音楽家ではない人が当たり前のように三種の楽器を弾ききるという、阿古屋がそこにいるという場面を見せてくれるところだと思います。演奏でいっぱいいっぱいですという感じがあればすぐに分かりますが、玉三郎さんはそうではない。阿古屋が弾いているんですね。これはとんでもないことだと思います。

 梅枝さんは琴、三味線、胡弓の中で、とりわけ胡弓が素晴らしかったように思います。途中のソロ(といっていいのかな?)の部分で、玉三郎さんとの違いを見つけました。玉三郎さんはトレモロでアルペジオを弾きながら最高音まで上がっていくのですが、梅枝さんは音が変わり始めるところまでアルペジオで弾いたら、あとはトレモロとグリッサンドで最高音まで上がっていきます。この違いが稽古量の違いからくる実力差なのか、流派の違いなのか私には分かりませんが、どちらの難易度が高いかと言われたら、間違いなく玉三郎さんの方でしょう。

 ただし、胡弓に関してどちらの音程が安定していたかというと、梅枝さんに軍配が上がるように思いました。玉三郎さんももうすぐ70歳です。年齢からくる耳の衰えというのはあるのだと想像しますし、人間である以上、それはどうしたって避けようがないのだろうと思います。勝手な想像ですが。あのフルトヴェングラーやカラヤンも、晩年はあまり耳が聞こえていなかったそうですから。しかしながら、そうは言ってもやはり完成度、そして阿古屋という表現で考えれば玉三郎さんが圧倒します。

 玉三郎さんの他の演目も見ていて、とにかく強く感じるのは、玉三郎さんは自然なんですね。当たり前のように難しいことをやってのけられる。その役の人が実際にそこにいる。玉三郎という人物は劇中には出てこないかのようです。これは天性のものと努力、経験、場数によるもの、全てを非常に高い次元で持ちえないと出来るものではないと思います。最近で一番驚いたのが、シネマ歌舞伎で見た「五人道成寺」で、全員懸命に踊っているのですが、はっきり言って玉三郎さんだけ別世界、異次元の美しさで、劇場で感嘆の声が漏れそうになってしまいました。そりゃあ人間国宝にもなりますよと納得するしかありません。

 さて、二度目の阿古屋を見に行った理由は、玉三郎さん以外の阿古屋が見たかったという他にもう一つあって、玉三郎さんが岩永をやるということをすっかり忘れていて、それをどうしても見たくなったというものがあります。

 岩永というのは阿古屋の登場人物で、岩永左衛門という名前なのですが、これが「人形振り」と呼ばれる演技をするのです。その名の通り、人形を模した演技なのですが、これは阿古屋が元は文楽の演目で、それを歌舞伎にしたため(とはいえ、文楽の初演の同月に歌舞伎の演目として上演されたらしいです)、人形浄瑠璃の要素を取り入れ、わざと人形のような動きをする役柄なのです。背後には黒衣が二人付き、人形を操作しているように見せています。

 その岩永ですが、玉三郎さんの日は松緑さんが努めておられました。以前見たシネマ歌舞伎の阿古屋の岩永は彦三郎さんだったのですが、その時に見た印象通りの岩永で、面白可笑しい動きをして、重苦しい場面が続き、息をするのも憚られるような観客の緊張感を解いてくれます。如何にも松緑さんらしいなぁと納得いたしました。

 そのうえで本日の阿古屋、玉三郎さんの岩永です。もう襖から登場した時点から空気が変わりました。人が演じている人形ではなく、まさしく後ろの黒子が操作している等身大の人形が出てきたとしか思えないのです。その動きの説得力にゾクゾクしっぱなしで、これはとんでもないものを見てしまったぞと岩永から目が離せませんでした。

 松緑さんと比較するつもりは無い(松緑さんは大好きな役者さんです)のですが、やはり玉三郎さんは異次元の存在です。長い時間をかけてひたすらストイックにお芝居、そして役柄を追求し続けなければ、あそこには到達出来ない、まさしく求道者がそこにはいました。いや、求道者もいませんでした。玉三郎さんだと言われなければ、あれが誰だか分からなかったと思います。そこに玉三郎さんはいなかった。舞台に出てきたのは人形でした。これを書きながら思い出してもゾクゾクします。

 そして、玉三郎さんが岩永として、後継者候補である梅枝さんが阿古屋を懸命に演じる姿を舞台上から見守るという構図も、次世代への伝承の瞬間を目の当たりにしているのだと思うと、たまらないものでした。こんな空間に、今年最後の観劇、そして歌舞伎座130周年の最終月というタイミングで居合わせることが出来たのを幸せに思います。多少無理をしてでも行って本当に良かった。

 余談ですが、岩永が動作を収め、正座に戻る時の所作が松緑さんと玉三郎さんでは異なるものでした。確かシネマ歌舞伎の岩永は松緑さんタイプだったはず。あれは流派の違い等なのでしょうか。その辺りがよく分かる方は羨ましいなと思います。もっともっと沢山のことを知っていきたいですね。