歌舞伎座に坂東玉三郎さんの「阿古屋」、映画館に「ボヘミアン・ラプソディ」と二日連続で観劇をしました。どちらも素晴らしく、実に幸せで満ち足りた時間を過ごすことが出来ました。
ところで、SNSを見ているとたまに目に入ってくるのですが、映画でも何でも、何かを見に行く際に、
「今日はインプットの日!」
「何事も勉強勉強!」
みたいなことを仰る方がいますが、うーん……と思ってしまいます。こういうことを仰る方というのは、自分が見たいから、好きだからそれを見たのではなくて、インプットや勉強が第一目的なのでしょうか。そもそもそんなこと言う必要はありますかね? と思ってしまいます。
自分が見たいから見た、面白かったなら面白かった、そうでないからそうでなかったでいいわけで、なぜインプットやら勉強やらという言葉が真っ先に出てくるのか私には疑問です。優れた芸術やエンターテインメントといったものを全身で浴びる際に、いちいちインプットだ勉強だなどと思うのは逆に不純であるように感じます。いちいちそんな心構えをしなくとも、受けたものは自然と自分の血になり肉になるはずですので、そういう表現はどうも腑に落ちません。
私も、歌舞伎、映画、美術、音楽等、色々なものを見聞きし、そこから自分の舞台に対して影響を受けたり、引用したりということはよくあります。先人や偉大な方々からいいものを取り入れたい、自分の音楽や舞台をより良いものにしたいという欲求は常にあります。しかし、それらはいちいち宣言しなくとも当然のことであるように思います。見終わって、とても勉強になったと思うことは多々ありますが、勉強しようと思って見たことは無いです。逆に、自分は大して見たくないのに見る必要があるような場合は、勉強のためにと思うことがあります。ですから、自分が見たいもの、見ると決めたものに対してインプットだ勉強だというのは、私は違う気がするのです。
そんなわけで、インプットや勉強という言葉は、なんだととっても薄っぺらく感じてしまうのです。そういうものが嫌でも目に入ってくるので、SNS離れが加速していきます。自分から嫌なものを見る必要はないですからね。
2018年12月31日追記
何の偶然か、まさしくこういうことだという言葉を見つけたので紹介いたします。
映画を見るときでも、本を読むときでも、ネタ探しの目的で見たり読んだりすることはまったくないです。
要するに楽しみのために見ます。そして見終わっちゃったら忘れちゃって。けど、見ること自体が刺激になって、何かが触発されて、まるっきり関係のないアイデアがピョコっと出ることもありますしね。
藤子・F・不二雄