善と悪

 先週、リハーサルに向う途中のこと。

 乗り換えの際、予定していたよりも一本早い電車にギリギリ乗れるか乗れないかというタイミングでホームにたどり着きました。しかしドアは目の前で閉まりかけ、おそらく体を捻じ込めば乗れたタイミングではあったのですが、ドアの前にいた駅員さんがドアを手でふさいだので、断念しました。そのとき、その駅員さんに対して「ケチ」という感情が頭の中でわいたのです。
 直後は、乗ろうと思えば乗れたことに対する悔しい気分でそう思ったものの、それから1分もすれば、ケチなわけではないことに気づくわけです。
 5秒発車を遅らせれば済むが、ルールを守り、明らかに電車に乗りたがっている人を制止する行為。これは社会的に考えれば善でしょう。日頃からかけこみ乗車はおやめくださいとアナウンスを流していますし、電車が遅れれば多くの人に迷惑がかかります。私があと少しでも早く歩いていれば乗れたのですから、私のミスでもあります。駅員さんは業務を忠実にこなしたのみ。私は文句を言われこそすれ、文句を言う立場にありません。私の行為は悪でしょう。

 昨年末のこと。
 前述と同じ会社の電車に乗っていたのですが、ある駅で明らかに歩行に難のあるおばあさんが乗ってきました。足が悪いのか、非常にゆっくりしか歩けず、介助者もいませんでした。混み合ってもいなかったのでおばあさんは席に座ることができ、そのまま気にかけていなかったのですが、降りる際に問題が発生しました。
 おばあさんが降りようとしているのですが、電車が停車している時間でどう考えても間に合いそうにないのです。ドアまであと2~3歩あろうかという時点でドアが閉まりそうになったので、席に座っていた私は
「ちょっと待って!」
 と誰が聞いているわけでもない言葉を叫んであわててドアまで走り、閉まりかけたドアに体を捻じ込み、こじ開けたのです。やや間があっておばあさんは無事降りることができた、という出来事がありました。

 上の二つの出来事は、
「閉まりかけた電車のドアをこじ開けて運行を遅らせる」
 と、行為だけを見れば同じことです。
 動機など知らない多くの乗客や運転手、車掌、駅員からすれば許し難い行いなのではないか、と。
 私は間違ったことをしたつもりは微塵もありませんが、私の行いは悪である、と言われる可能性は大いにあります。その10秒で人生が変わってしまった人がいるかもしれない。
 世の中、善と悪など結果だけ見ては簡単には割り切れないものだなと考えてしまった二つの出来事でした。

 記事のタイトルとは関係ないのですが、後者について少し補足があります。

 おばあさんが降りるときに、
「大丈夫ですか?」
 と声をかけたのですが、私を振り返ることもありませんでした。ここで、助けてもらったのに失礼な人だと思う方はいるでしょうか。いるかもしれません。でも、感謝されたくて行ったことではないので、別にそれはそれで構わないと思うのです。私の声が小さくて聞こえていなかったのかもしれないし、耳の遠い方だったのかもしれません。真実が分からない以上、それでいいと思います。おばあさんが無事に降りられたという事実が大切です。
 何かするたびに見返りを求め、それが得られないと怒る人がいますが、それは違うと。「他人のため」などという言葉はまやかしで、根本的には自己満足のためでしょう。

 もう一つは残念なことです。
 おばあさんがどう頑張っても降りられないのが明らかなのにも関わらず、その場にいた私以外の十数名は誰一人として助けようとはしませんでした。
 私にとってはお礼を言われなかったほんの少しの寂しさよりも、電車から降りられずに途方に暮れたおばあさんを見るほうがよほど悲しいです。周りにいた人は何とも思わなかったのでしょうか。私にはちょっと理解ができませんでした。
 他人への関心の高低は人それぞれなので別に構いませんけど、せめてお金も時間も使わずにできる人助けくらいしようよという気持ちを持つのは間違っているのでしょうか。

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