高校野球を残酷ショーと言ってしまうのはなぁ

 先日、呑んでいる最中に人様のAndroidのスマホを触らせてもらったのですが、なにぶん全員酔っぱらっていたものですから、操作方法の確認という事で、その方(巨人ファン)のトゥイッターアカウントから、アンチジャイアンツ愛に溢れたトゥイートをして腹を抱えて笑っていたところ、翌日フョロワーからえらい怒られたらしく、やはりお酒とインターネッツは怖いものだなぁと再認識すると共に、せめて「ナベツネは引退しろ」くらいにしておけばよかったなぁと思った次第です。皆さんくれぐれも乗っ取り被害にはお気を付けください。泥酔時のトゥイッターは禁止の方向でお願いします。

 ところで、軟式野球の試合が延長50回までもつれたという話がニュースになった時、絶対にこういう意見が出てくるんだろうなあと思っていたのですよね。

「残酷ショー」としての高校野球
http://bylines.news.yahoo.co.jp/soichiromatsutani/20140831-00038729/

 まぁ、一人の投手に過度な連投をさせるのはよくないという主旨には賛成なのですが、せっかく正面から批判を書いても、タイトルの下品と書き方が攻撃的なせいで、非常にもったいない印象です。攻撃的な文章とか品性を疑われるからやめておきましょうね。誰ですか讀賣は解散しろとか言ってるのは。

 この方のエントリーは全体的に「嗚呼……」と微笑を浮かべてしまう感じのものが多いのですが、最初から炎上狙いなんでしょうか。今回のエントリーはタイトルが刺激的すぎたのか、そういった層の方々の逆鱗に触れてしまったらしく、ボヤ騒ぎから中規模の火災程度に発展してしまったようです。それにしても残酷ショーはどうなんですかね。

 それは気にせず野球の話ですが、同じ投手が連投する理由っていくつかあると思うのです。

・エースは何人もいない

 やってみれば分かるのですが、投手ってめちゃくちゃ難しいんですね。3回ストライクゾーンに入れるだけでも難しい。私なんてそれ以前の問題で、ベースまでまともに届くかすら怪しいです。で、昨今では高校野球といえど120~130km/hの球速では通用しない。速い球を投げられるのも一つの才能です。そのうえで、緩急をつけたり変化球を投げたりコースを投げ分けたりしなければいけないわけで、そんな高度な技術を求められるポジションを、草野球ではなく全国大会で通用するレベルでこなせる人間の方が稀有なわけです。

 大抵、勝ちあがってくる学校にはエースと呼ばれるピッチャーが一人いて、それ以外の投手は言い方は悪いですが、実力的には落ちるわけです。そのエースの中でも、化け物のような実力と運に恵まれたほんの一握りの投手がプロで活躍できるのですね。

 野球は点取りゲームですが、点を取られなければ少なくとも負ける事はないです。そのため守備が基本になりますので、とにかく絶対的なエースが一人いるだけで圧倒的に有利になるわけですね。どのチームとは申しませんが、首位打者と本塁打王を同時期に擁しながら圧倒的最下位に沈んだ、横浜にある球団もありますからね。ですので、もしエースクラスを二人も三人も抱え、ローテーションを組めるほどのチームがあれば、勝ち抜く確率はかなり高くなるものと思います。

 そんなわけで、甲子園まで勝ち上がってくるのは、現有戦力でやるしかないだろうという公立校ではなく、高校三年間の全て野球に捧げようという選手が集まり、ある程度の力を持った二番手三番手を控えに用意できるような選手層が厚い私学になるわけです。

 そんな私学でも、やはりエースが頭一つ抜けているため、勝つために投げられるなら投げてもらうしかないという判断になるのでしょうね。

・トーナメントである

 なぜ投げてもらうしかないのか。二番手でいいじゃないか。という部分なのですが、トーナメント制である以上、そうなってしまうでしょう。

 プロ野球には捨て試合という考え方があるので、次の勝利のために戦力を温存するという戦法が通用するのですが、高校野球は負けたら終わりなわけです。そこがまた過度な連投が生まれる一因になっていると思われます。

 話は単純で、負けた時に悔いを残したくないという事でしょう。準々決勝でエースが完投した。次も行けるが、負担を考慮して準決勝は二番手を先発させたら打たれて負けた。相手はエースが先発だった。これで終わってしまうわけです。そうなった時に、エースの肘を保護できたからよかったね。残念だけどまた来年頑張ればいいよ。と感じる人が果たしてどれくらいいるのか。三年生に来年はないわけです。

 彼らは野球をやるために高校に入学し、毎日毎日ハードな練習を重ねているわけで、勝負事である以上、勝つために全てを懸けているわけです。そんな子供たちを前にして、今日は負けるかもしれないが、エースの肘の負担を考えて二番手に先発させると言ったとして、果たして納得する選手はいるんですかねと。

・プロになる選手だけではない

 連投問題で必ず出てくるのが、「プロ入り後に悪影響が出る」という話なのですが、プロに入れるのは本当に限られた人数で、今大会で連投をした投手のほとんど全てはプロにはなれず、進学、大学野球、社会人野球、就職といった道へ進むのでしょう。これが自分の最後の晴れ舞台だと認識しているのであれば、例え腕がぶっ壊れても投げて勝ってやろうと考えてもおかしくなかろうと思います。

 甲子園で連投しすぎた投手がプロ入り後に壊れる確率が高いというのは統計的に確からしいのですが、甲子園に出場している時点で、なれるかどうかも分からない、なったとしても通用するかどうか分からないプロ入り後の事を考えて投げろという方が難しいのではないかと思うのですね。プロ入りこそが全てなのであれば、甲子園に出なくとも、本当にいい選手はスカウトが見逃さないものです。

 以上が過度な連投が起こる仕組みではないかと思うのですが、要するに、負けたくない、悔いを残したくない、だからルールの範囲内で最大限の事をする、という具合でしょうか。

 私はいわゆる体育会系のノリや文化は受け付けない方で、全くもってついていけませんし、反発して衝突して玉砕するかフェードアウトするかなのですが、高校球児の何が何でも勝ちたいという気持ちは分かります。心にすごく熱いものを抱え、今にも沸騰してしまいそうな年齢でもありましょうし。

 子供にその後の人生も視野に入れた冷静な判断で自発的にどうせいというのは難しかろう、となれば、やはり大人が制御すべきであろうという話に当然なるのですが、ではどうしたらよいのですかね。入部当初から「勝利より大切なものがある」、「時には負けを選ぶ必要もある」という教育を徹底して行いましょうか。

 難しいでしょうね。例えばそれを教え込んだとしても、全ての学校が同じようにしなければ、闘争心の面で圧倒的に不利になるのは明らかです。負けてもいいんだという考えが心の片隅にあるチームと、絶対に負けられないと死にもの狂いで戦うチーム、どちらが勝つかといったら後者でしょう。だったらうちは負けるための練習なんてしませんよと。そうなるのが必然でしょう。核の抑止力にも近い様相です。

 となれば自浄作用には期待できないわけで、もうルールで縛るしかないわけです。

 連投は禁止というルールが出来るだけで相当違ってくるように思います。それによって先発起用の妙も生まれてきますから、毎試合エースに投げさせておけばよい、エースと心中だなどという、猿でも出来る采配もなくなるでしょう。相手校とぶつかるタイミングなどで先発の予想を立てて戦略を練るというのも面白いと思うのですよね。

 勝敗についても、自主的な判断ではなく、ルールであれば止む無しと納得できようというものです。采配を間違えた監督の責任も大きいわけで、高校球児がやたらと責められる事もないのではないですかね。

 ただ、酷使した筋肉の回復は1~2日では完了しませんから、連投禁止にしたところで、甲子園の日程自体を大幅に改革しなければ本当の意味で選手を保護する事にはならない気がします。となれば、夏休み期間に終える事は難しく、7月から断続的に試合を消化していくほかなく、阪神タイガースは地獄のロードが1ヶ月長くなってストレスで下位に低迷すればいいじゃないという事で、私としては実施していただいてもいいのですが、現実的には難しいでしょう。

 話は変わりますけども、この方の中では、リアリティショー=残酷ショーという構図が出来上がっているようなんですよね。

ここで、高校野球の「残酷ショー」としての側面について触れておきます。
実は、こうした残酷ショーは世界中のテレビ番組で見られます。それらは「リアリティショー(番組)」と呼ばれるもので、素人や芸能人が台本のない状況に身を置いて、さまざまな体験をするといった番組です。

 リアリティショーの中に残酷ショーが包含されているというのが本当のはずであって、無理やりにでもこじつけようとしている感がなんとも。両投手を猿岩石の二人とダブらせるのは無理がありすぎではないですかね。高野連批判のための材料にしているように見えるのですよね。

 私もリアリティショーの類は気持ちが悪いので好きではないのですが、残酷ショーという言葉を選んだのはいかがなものかと。その単語に脊髄反射した方々からだいぶんバッシングを受けているようですが、元々炎上狙いだったのでしょうから、まぁそこは注目を浴びることが出来てよかったんじゃないですかねと思う次第です。

 こういった話題が燃え上がる時に気になるのは、いつも本人不在なんですよね。自分の倫理観とは違う何らかの出来事を見て、けしからんと思った大人が勝手にキレて、賛同派と否定派入り乱れての殴り合いに発展するわけです。いいぞもっとやれと見て楽しむ側としてはこの上なく風流なわけですけども、とりあえず本人たちの意思くらい気にしませんかとは思います。本人たちにしてみれば、「私のために喧嘩するのはやめて!」だと思うのですよね。人生で一度くらいは言ってみたい台詞であります。

 女子マネの件もそうだったんですが、本人はとても満足していて、周囲も知らない人間の雑音なんて気にするなという風であったそうですが、顔も名前も知らない周りの大人が、教育だジェンダーだと本人不在で批判に結びつけてがなり立てる辺りがなんだかなぁと。善し悪しについてはケースバイケースで個別具体的に判断した方が賢明な気もしますが。

 私は基本的に、本人がいいと思うならよかったんじゃないですかねという側なのですが、その一方で、対象が未成年であり、教育の一貫で起こった事であるという事が問題を難しくするのですよね。いい年した大人だったら話は簡単なのですがねえ。

 義務教育の終わっていない未成年者であれば判断力もまだ未熟ですし、そういうものだと教えられて育てば、そういうものなのだと思って成長するでしょう。自分で判断したと思っていても、実際は周りの影響による決断だという事も多いでしょう。ですから、もし間違っているのであれば、そういった誤った思想の影響下に置かれないようにしなければならないと。

 それは分かります。ですが、その社会正義(だと自分が信じるもの)や、怒りや批判の矛先が、高野連や学校や、果ては個人に向かうのはどうなんだと。もし、ごく一部の異常なしきたりによって起こった事であれば、大きく非難されて終わりのはずなんですよね。そうでなく、賛否両論であったり、多くが賛成している事なのであれば、もっと根本的な部分に意見の相違があるわけで、学校や家族を批判したところで無駄に傷つく人が増えるだけであって、解決にはならんのではないかと。

 高野連も学校も、甲子園を見る層の大半が批判するようであれば対策を打たざるを得ないでしょう。本当に「人一人の人生を崩壊させる」ような蛮行であれば、さすがにそれを見過ごす世間でもなかろうと。そうではないのであれば、世論がそこまで傾いていないか、それが美談として許容される素地が存在するわけで、高野連はクソだ残酷ショーだ男尊女卑だと言っても喧嘩になるばかりな気がします。逆に、残念ながら世間はそこまで一個人に興味がないし、責任を持とうとしないというのもまた事実だと思います。

 難しいんですけども、世間の空気そのものにまで風呂敷を拡げると非常に面倒なんですよね。対象を拡げれば拡げるほど、投げた石が当たる確率が高まるんですよ。例えば、同じことを言いたかったとしても「オーケストラ業界はクソだ!」と書くのか、「○○オケはクソだ!」と書くのか(あくまで例であり私個人の思想などとは全く異なります)で、世間の反応というのは全く違うわけです。一般論を書いたら、思い当たる事があったのか、勝手にカチンときてキレちゃう人とかいますからね。図星というやつですかね。おかげで嫌われていく一方です。男は一歩外に出れば七人の敵がいるからね、仕方ないね。そんなわけで、なるべく対象を狭めて書くのは自衛手段とも言えるでしょう。個別具体的な事を言った方が野次馬は集まりますけども。

 思った事を書き連ねたので、だいぶとっ散らかってしまいましたが、じゃあどうすればいいんですかねと言われれば、分かりません。それが分かれば、ネトウヨだとかブサヨだとかいう不毛なレッテルの貼り合いや罵り合いなどとうに解決できているわけで、色々な論が出ては偏った視点からの罵詈雑言が噴出するというのは、インターネットの一般化により永久に抱え続けなければいけない問題になってしまった気がします。

 ただまぁ、何かあると両陣営に分かれて罵倒合戦が始まるのはどうにかならんのかなぁと常々思っている事は確かで、私ごときが考えても意味はないでしょうけども、考え続けるというのは人間である以上大切であろうと思っている次第です。

 あ、松谷さんの愉快な文章は別にどうでもよかったです。

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