ストラディバリウスを当てられないと格が低いという風潮があるのでしょうか

 お正月のテレビ番組で、数万円の入門用のヴァイオリンと数億円のストラディバリウスの演奏を聴き比べて、どちらがストラディバリウスか当てるというのを毎年やってるんですけども、その辺色々アレだなぁと思うところもあります。

 まずこれをテレビの向こうでどうこう言うのは無理かろうと。放送の電波に乗せた時点で周波数が相当カットされてますので、少なくとも視聴者が聞いて当てるというのは非常に難しいと言いますか、単なる当て推量になってしまうわけですね。

 さらに、楽器と奏者の相性にも左右されるものと思われますので、一概にストラディバリウスがいついかなる時も素晴らしい音色を発揮するのかと言われると、何とも言えないなぁと。数十年間弾きこんだ自分の楽器と、直前に渡されたストラディバリウスだったらどうなるんでしょうね。

 最終的には二択問題ですから50%の確率で正解するわけで、その場にいる芸能人も単なる直感、当てずっぽうである可能性も否定できません。

 毎年ロクに聞けていなかったのですが、今年はきちんと聞きました。確かに音の質が全く違うのは分かりましたが、数万円と数億円の違いなど分かるはずもなく、別にどっちでもいいじゃんという程度の感想しか抱けなかったという指揮者として致命的なアレですがまぁそこは気にしないでおきましょう。

 さて、当てる当てないとは別の問題で、比較自体はよろしかろうと思うのです。誰もが興味ありますよね。しかしながら、音楽というのは嗜好の世界ですので、どちらが絶対的に優れているという事は無いと思っております。件の番組では「格付け」と称して聴き比べを行い、ストラディバリウスが「正解」という扱いになっております。そうなってきますと、何が正解なんだという話でして、入門用のヴァイオリンの音色が好きな人は格が低いのかと、そういう話にもなりかねないわけですね。

 前述した事を繰り返しますが、そもそも音楽や美術という分野は感性に左右されるものであると私は思っておりますので、絶対的な指標は存在しないと。1,000人中999人がAという演奏が良いと言ったとしても、自分はBが好きならそれが正しいのです。そこで、999人がいいというのだから自分が間違っているのだなどと思う必要は微塵もなく、自分が良いと思うものを胸を張って主張すればよろしかろうと思います。

 別の問題で、数千円の盆栽と1億円の盆栽を比べて、1億円だと思う方を選べというのがあったのですが、私は数千円の盆栽の方が好きだったのですね。ただ、正解は恐らくもう一つの方だろうなと思ったので、「こっちの盆栽の方が好きだけど、正解はあっちだと思う」という言い方をしたわけです。トゥイッターで。結局正解はその通りだったのですけども、やはり何か引っかかるよなぁと。

 何が引っかかるのかと言うと、この番組が「格付け」ではなくて、ストラディバリウスだと思う方を選べ。だったらいいと思うのです。良い悪いじゃなくてストラディバリウスの音色だと思う方を当てればいいわけですから。格付けと言って、ストラディバリウスの方が良いのだという風な言い方をされると、途端になんだよそれと思ってしまう私の天邪鬼精神が出てきてしまうわけです。

 話は逸れますけど、学校教育で音楽と美術の授業で優劣をつけるのはやめていただきたいとずっと昔から思っております。数学や体育は結果がはっきり出るからいいですよ。でも芸術を数値化して比較するなんて無理なんですよ。特に美術。真面目にやってるのに全然いい成績を取れなかった事で、自分は美術の才能がないんだと思って、未だに絵を描くの嫌いですから。まぁそんな事で自分の才能を決めつけないような人が美術家になるんでしょうから、私には才能が無かったのだと思いますけども、少なくとも絵を描くのが嫌いになるという事はなかったんじゃないかなと思わないでもありません。

 今でも絵を描くのが嫌いになった元凶の先生の名前覚えていますからね。内田コノヤロー。お前だよバカヤロー。ファッキンジャップくらい分かるよバカヤロー! と私怨をぶつけたところで終わりにしたいと思います。

 自分が好きなものは誰が何と言おうと自信を持っていればいいのだと思います。ストラディバリウスを当てられなかったから格が低いなんて事はありません。音楽に限らず、人生全般においてです。誰かの人生を生きてるんじゃなくて、自分の人生は自分のものですから。

 出演者もそんな真面目に考えてないだろうに、暇つぶしのバラエティにマジレスしてしまった私は2015年無事に生き抜けるのでしょうか。