断るという選択肢は積極的に認めたいなぁと

 本日付のほぼ日「今日のダーリン」に、そうですよねぇと思う事が書いてありまして、色々と考えていた事を思い出しましたので、忘備録的に。

 何かお願いされる時は「お断りいただいても全く問題ございません」と一言添えられていると助かるという部分なのですが、これ私は結構前からやってるんですね。

 人に物を頼む場合、断るという選択肢がなければ、それは命令になってしまうわけですよ。同組織の中にいる人でしたらまだしも、そうでない方に対して、そういったお願いの仕方はありえないと。断る権利があるなんて書かなくても当たり前じゃないかと言う方もいるとは思いますが、人間は感情の生き物ですから、書かれているといないとでは大きな差があると考えますね。

 昨年度まで、面識のない方々に色々とご協力をお願いする機会が多くありまして、そういった際、私は、こういう事をしたいのでご協力いただけないでしょうかと希望を一通り述べた後に、お断りいただいても全く問題ありませんと一言入れているのですね。

 それでも言葉足らずと言いますか、その気もないのに申し訳程度に書いていると捉えらてしまわないかなという不安を抱きつつなのですが、少なくとも私は本当にそう思って書いています。一方的なお願いなど、お断りいただいても問題ないのは当然なのです。

 なぜわざわざそんな事を書くのかと言いますと、相手も人間だからですね。同じ人間である以上、受ける自由も断る自由もある。相手の権利とでもいいましょうか。自分の希望を他人に強要する権利はないわけです。そこは絶対に軽視したくないところで。

 人に何かお願いする際、絶対にやってほしいとか、やってもらう前提で話を進める方もいらっしゃると思うのですが、私はそうは思っていないのですね。断られても良いという前提で考えていて、私はこういう事をしたいと思っているので、もし賛同いただけるなら是非お願いしたいです、と。

 また、自分はこんな善い事をしようと思ってるんだから協力しろよ、当然するよな、という進め方も好きではないですね。自分が善いと思っている事を全ての他人が善いと思う事などあろうはずもないわけで、善いと思うか思わないかは相手の判断に委ねるべきでしょう。善い事をしているんだから受け入れられて当然という考えは危ないものと思います。昨日のエントリーで触れたアイス・バケツ・チャレンジも、そういう文脈に見えるからあまり好きになれないのかもしれないですねと、ふと思った次第です。

 相手に何かをしてもらうという事は、同時に相手の時間を奪う事にもなるわけです。時間は本当に貴重なもので、有限であり決して取り戻せないものですから、それを自分の為に使っていただくのは非常に申し訳ないですし、使っていただけるのであれば本当にありがたい事だという考え方がまずあります。仕事でもなんでも、自分と相手、双方の意識が合致して、初めて一緒に出来るのではなかろうかと。報酬や弱みをチラつかせて、ああしろこうしろ、やって当然だと他人を顎で使うようなやり方は忌むべきものであろうと考えておりますし、私はそういう人間とは仕事をしません。

 断られても構わないと思っていれば、本当に断られたときに無用なフラストレーションが発生する事はないわけです。なぜ断るんだ、ありえない、などと相手を責めるような思考をしますと、フラストレーションの矛先が断った相手へ向かう危険性すら孕んでいるものと思います。自分の内に留まったとしても、ストレスを抱え込んでいい事など何もありませんから、断られたら次を考える、またいつかお願いしてみる、そういった考え方の方が身も心も穏やかであり、結果として自分の為にもなるのではないかと。

 そんな事を考えておりますと、いやそれでは組織は回らないだとか、理想論だとか色々言ってくる人もいるのですが、例え理想であってもそれに近づくような努力を否定する必要がどこにあるのか私にはよく分からないなと。そういう事を言ってくるのは、過去の自分の成功体験と重ね合わせた人だったりして、結局多くの人によって言い古されているステロタイプな一般論を説いているにすぎないと思うのですよね。そんな事分かってるから偉そうに言うなよ、私はあなたの分身じゃないんですよと。

 とまあ、全てはお互いを尊重したうえでの話であり、あまりに失礼な返信ですとか、理不尽な事が起こったときはまた話は別ですけどね。幸いにしてこれまでそのような事態は発生しておりませんで、良い方ばかりと知り合えたのは、運が良かったのだと思っております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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