論理と感情のはざま

 感情論と道義の問題は別なんじゃないかなと。

 過ちを犯してしまった人のことを尊敬していたとして、その人のことを擁護する気持ちはわかります。でもやっちまったもんはやっちまったもんとして切り分けて考えないなら、それって教祖が絶対の怪しい新興宗教なんかと何か違うんですかね。

 例えば私の友人が他人に対して詐欺を働き、有罪判決が出たとしましょう。感情のうえでは刑務所に入れないでくれと思うかもしれない。思うのかな。いや、私は思わないかな。過ちを犯してしまったのだから、それは償う必要があるわけで、感情の話は別でしょう。確かに詐欺は働いたかもしれないけど、こいつは素晴らしい人格者だから悪くない。有罪判決はおかしい。ってそれは違うと思いますよ。

 私は思考停止は一番の悪だと思ってます。いい人だからと無批判に無罪を叫ぶのは単なる思考停止ではないかと。事情の確認、検証を行ったうえで、罪がないのか、あったとしてどれほどの罰を受ける必要があるのか、その罰は妥当なのか、個人個人が自分の頭を使って考えることが大切なのでは。ましてや知っている人が当事者なのであればなおさら。その結果、不当な罰だと思うなら声をあげるなりすればいい。犯罪なら裁判所が担当することでも、道義の問題となるとちょっと厄介です。

 でもね、やってしまったことが事実なら、「あーあ、やっちまったな。ちゃんと償いなよ。待ってるから。まあ、また一緒に呑みに行こうぜ」と笑って話して手を差し伸べるのが友情とか愛情とかそういうもんじゃないんですかね。私にはよくわかりませんが。

論理と感情のはざま」への3件のフィードバック

  1. 匿名

    サムラゴーチは障碍者詐称で罪に問われるでしょうけれど、新垣さんは具体的にどんな法律に触れたんでしょうかね?
    大学の名前を汚したかもしれないけれど、それって法律の範疇じゃなく、大学の裁量であって、大学側に恩赦を願うのはアリだと思う。

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    1. 185usk

       エントリーはあくまで一般論ってことでw

       新垣氏の話であれば、佐村河内氏の欺瞞を知りつつ長年に亘り幇助をしていたという叱責は免れないかと思います。恐らく逮捕や裁判にはならないと思います(何らかの罪を適用して訴える人が出ないとは限りませんが)。ですから、仰るとおり法律ではなく、氏の属している組織が然るべき調査の後、裁定を下すということになるのでしょう。

       で、私がナニをアレな感じだなぁと思ったかという話ですが、論理的に考えた結果として組織の決定に対して恩赦を願う行為は問題無いと思います。ただ、「彼がいい人だから」という理由だけで擁護するのはちょっと違うんじゃないですかね。いい人であることと、やってしまったことは分けるべきじゃないですかね。ということです。

       感情論で言えば、私もテレビを通じてですら、いい人なんだろうなってのは十分に伝わってきましたよ。こりゃあ他人を積極的に騙そうと思ってやってた人じゃないんだろうなあと。

       ひょっとしたら、協力しなければ身内の命はないとか脅迫されてたなどという予想の遥か斜め上を行く展開が待っているかもしれないですから、まだ何とも言えませんけどね。何とも言えないからこそ「いい人だから無罪」というのは余計におかしな話になってしまうと思います。今出ている情報では、彼は悪くない、彼は被害者だという結論にはならないはずなのです。

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      1. 185usk

         あと、氏に裁きが下ることを願っているわけではありませんから、そこは誤解なきよう。社会的制裁を受けるべきだとか受けるべきではないという話ではありません。

         調査の結果、組織の結論として、お咎め無しですとか、減給程度で済ませるということならそれでよいと思います。もっともご自分で職を辞すると仰っておりましたので、組織の裁定以前の話のような気もしますが。どうなりますか。

         とにかく「いい人だから無罪に決まってるだろjk」という思考停止はやめてほしいんだぜという事が言いたかっただけであります。

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