出会いもあれば別れもあるのは必然だけれど

 一般の統計があるとすれば、私は人と知り合っても、波長があって友人づきあいに発展する割合がかなり少ないんではないかなと思っています。なので昔から友達が少ないわけですが、友達がたくさん欲しいとは思わないし、少ないから作ろうではないかとも思わないので、別に気になってはいません。たくさんいるのがすごいとか偉いとか思わないし、だいたい時間は有限なのだから、そんなたくさんの人と親密に付き合えるはずがないと思っています。

 そもそも「友達」という概念からして私にとってはとても曖昧なものであって、「友達」だの「仲間」だのやたらと言葉にする人がいるのですが、確認が必要な時点で果たしてそれは友達や仲間なんですか? というくらいには捻れております。概念としてはなんとなくでしかなくて、この人は友達だ、この人は友達じゃないと区別して考えることもないですし、いちいち考えて決めるようなことでもないだろうと。

 こうして文章にするにあたり少し考えてみたのですが、自分から呑みに誘おうと思えるくらいの人が、肩書とか立場とか経歴とか年齢なんかを越えて仲がいいのかもしれないなと思えるボーダーなのかなあと。じゃあ酒が飲めない人はどうなんだとか屁理屈は受け付けません。

 そんな具合だから、Facebookだのmixiだので繋がっただけで「友達」と表示されると居心地が悪くて仕方がないわけですが、それはもう偉い人たちが決めた仕様なので私ごときには如何ともし難い問題であります。

 一方、一度知り合っても、離れていく人もいるわけで、それについては、たとえ誤解やすれ違いが原因であっても去る者追わずのスタンスでして、一から十まで説明や弁明をしてまで繋ぎとめようとは思いません。いなくなるならそれまで。縁があればまたいつか会うだろうというくらいにはドライだし、実際そんなもんです。必要ならどちらかが話を切り出しますよ。それがないということは必要ではないんです。

 だいたいそんな感じなのですが、物事には例外もあるわけで、必要だから自分から話をするだろうなって人もいたりするのが面白い。損得勘定とか無しで、どうしても繋がりを保っていたい人というのもいるんですよねと。自分で書いておきながら、へーって感じですが。

 なぜこんなどうでもいい、ごく私的なエントリーを書いたかというと、のっぴきならない事情により、そんな大変残念な結果にならざるを得ないであろう案件がありまして、しかしこれはもう誰が悪いとかじゃないし、自分がどうにかできたり、どうこうするような類のものではないから、まさに運命、巡り合わせ、これにもきっと意味があるんだろうと思って現実を受け入れるしかない状況が発生するであろうことが予測されるため、人生そんなこともあるのだと記録しておこうと思った次第です。上に挙げた例とはちょっと違うんですけどね。

 今生の別れではないから、それは仕方がないねと頭では整理できているので、悩んでいるとかではないのです。ただ、実際そうなったとして、いざその時にスッと受け入れられるのかはわからないわけです。理論と感情は別だから。受け入れられなくとも現実は現実としてやってくるわけで、今いくら考えたってわからないから、考えても仕方がなく、まさにレットイットビーであります。でもきっと、それならそれでどうにかなってしまうのでしょう。薄れてしまったり忘れてしまったりね。

 あまりに個人的すぎる話でした。なんであろうと率直な感情としては嫌だなあと。

 あー。

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